池田晶子

人が死ぬということは当り前のことです。あまりにも当り前のことなので、近代以降の科学的な「知性の働き」は死の存在を前提に、死体を解剖して死を理解しようとします。しかし、死体を解剖しても死そのものは理解できません。一方、この死ぬという当り前のことを、これは何なんだろうと懐疑する精神の働きがあります。それが「理性の働き」です。理性は死という存在の謎に気づき、懐疑し、考え始めます。そして、その存在の不思議を前に愕然とし、その謎をただ謎として認めるようになります。この時、懐疑が純粋に信となるのです。 私たちは、当り前のことは当り前であるがゆえに「分かる」「知っている」と思い込んでしまいます。しかし、私たちが生まれ、生き、そして死んでいくという、その当り前のことのその意味はやはり謎です。そのような謎―私の存在、宇宙の存在、人生の意味などの謎はたくさんあり、それは分からない謎です。そしてそのような謎に正面から取り組み懐疑した時に、私たちは実は何も知らないのだと知るわけです。 このように私たちは真に考えれば考えるほど、自分の無知に気づきます。そして無知に気がつけば気づくほど世界の謎に気づき、その謎に対して謙虚になっていきます。そしてその時、純粋に信じるということを知るのでしょう。この様に「考える」ということと「信じる」ということは、同じ精神の働きの表裏なのです。